音楽の反復練習の意味とその楽しみ

楽器を上達するには避けては通れない反復練習。”効率絶対”の現代にあり、その効果への疑い、飽きとの闘いや、ケガの要因にもなるなど、諸刃の剣とも言える”反復練習”を中心に音楽の練習姿勢、子供音楽教育の意義などについても少なからず寄り道しながら論じたい。

 特に順番通りに読む必要も無い構成になっているので、お忙しい方には興味のあるところから読んで頂いて構わない。

嫌いな練習No1. 、好きな練習No1

 楽器を習得する過程で、一番に拒否反応を示される言葉が“反復練習“ではないだろうか。子供の生徒にはあからさまに難色をしめして、「イヤだと」はっきり拒否してくれる子も、珍しくない。(子供は素直で正直が良い)

 が、一旦始めると、高い確率で夢中になれる器楽練習の一つでもある。

実際、つい5分(説得、交渉の時間)前まで「イヤだと」拒否反応を示していた生徒が、5回の反復練習の後に、止めても自ら弾き続ける事をやめないという素敵な風景は、よくおこる。

 逆に乗じて上位の学生は、反復練習の効果やその中毒性に頼り過ぎ、弾き過ぎから腱鞘炎などに代表する怪我をしてしまうケースも少なくない。音楽学生には練習を切り上げる大事さと、量と質のバランスを学ぶ時間でもある。

反復練習の効果と意味 (反逆のアメとムチin令和)

 初等の子供たちに反復練習をさせるには文字通りアメが一番である。食べる飴を上げるのは経験上一番に効果的である。逆にムチは、ここに良い効果は、出さない。

 アメが効く理由は当然飴が美味しいからであるのと同時に、イヤな作業をアメの甘さを使って風景をすり替えられるからである。下品な言葉で言えばマインドコントロールなのであるが、とにかくその練習時間が彼、彼女にとって楽しく甘い思い出になるようならければいけない。すなわち彼らがもう一度その風景を再現したいと身体で思えるようにならなければいけない。その効果には個人差が出るが、願わくば“家に帰ってそれを再現するのが待ちどうしい“というくらいに。

 (因みにお菓子のアメは上げ過ぎれば身体に悪いので、早々と卒業するようにお勧めしている。)個人的には、一度するごとに教本にシールを貼る、描いた星に色を塗るなどで、十分に生徒たちは楽しんでくれる。「そんな事で良いのか」と思われるかもしれないが、大事なのはアメそのものよりも、その場の空気感である。イメージで言えば“砂場で砂遊びをしている空気感“と言ったところであろうか。それは兎に角楽しければ楽しい程よく、楽しさに限度を設けず底無しに楽しい、ジムナスティックのターザンをYeah!と叫びながら、滑走していく位楽しい、のが理想である。だからシールひとつにしても、なるべく子供本人が選んだお気に入りのものが良いかったり、星に色を塗るにしても物語があったり…ともあれ、子供のお気に入りと音楽の世界が結びつく様に、作り上げる事が肝要である。音楽という新しい部屋を彼らの心の中に”新しい空き部屋”として作るのである…。

緊張の練習

 脚光眩しいステージに上がり、100ものオーディエンスを前に、日々の練習の成果を発揮するのは並大抵の肝が座っていないと出来るものではない。

 その昔、精神力を上げると言う大義名分にのっとり、過激な練習を強いていた時代がどこの世界にもあった。ムチは緊張感を教室に作り出す。緊張感(ソレが鞭の効力かどうかは別として)が漂よう教室の中では生徒の集中力は高く、教わる側と教える側の意思疎通も通り易い。 

 その為に過激なプレッシャーの下での練習は一見すれば理にかなってるように思えるが、しかし、過度の緊張、プレッシャーは思考を停止させ、筋肉を硬直させ、パフォーマンスを下げる、やがて生徒は嫌気と共に学習をやめる。これもよくある風景であった。

 厳しさの目立った時代に育った世代が、教授をする時代になり、柔和と厳しさの狭間で新世代への教育のバランスに悩んでいる風景がめだつ。(この事については、もう一度よく考察を重ねなければいけない時代にきている。しかし、ここでは音楽の現場において必要な緊張感及び精神の形にのみにおいて私見を述べる事に留める)

  さて、私見では、極度の緊張の下に於いても結果を残す人間の多くは、”楽観”の性質を持ちあわせた人間である。すなわち”割切る力”である。

 ”一丁やってやるか!”、”まあ、失敗して死ぬ訳でないし…”、”Show time!!!”、と、これらは全てその緊張から自分を解き放つための”吹っ切りの”言葉であり、そのコト(恐怖体験といっても良い)を楽観視させるための呪文である。コレは練習の間に本番を意識した練習をさせるので事足りる。逆に言うと本番は一発なので、反復練習に必要以上の緊張感は必要ない。また、こう言った割り切る精神力をレッスンの中に意識させる事はコーチングに於いて大事な事である。他にも緊張を和らげる技術は在るが、音楽の理解(姿勢)を深める以上にコレらの呪縛を解く為の良薬はない。(ところで、緊張そのものが”悪”ではない。緊張は練習に於いても、舞台の上でも集中力を増してくれるし、音楽的にも”スリル”という媚薬となって音に艶を効かせてくれる。)

 生徒が音楽への理解を深めていく事は、生徒が音楽で必要な緊張感を自身で養う事にも繋がる。

 緊張感は生徒が、その場(教室)に対する畏怖、教授する者への敬意、何よりも音楽への漠然とした畏怖など、から”漂よう”事が理想である。その様な畏怖は、あたかも神に信奉させるがの如く教え込む事では決してない。しかし、コーチをする者か音楽への愛が生徒に漏れ伝われば、必然生徒は音楽、楽器に対する好感を教師と共有し、楽曲や楽器に敬意を払い始めるのは必然ではないか。その敬愛こそが”健康的な緊張感”の正体であると思っている。また、リズムの良い反復練習の中ではコミュニケーションが上手く取れやすく、講師と生徒との信頼関係を良く築くのにも一役買ってくれる。

五回でコトは成り立つ。(やり過ぎ注意)

 何度の反復練習が良いのかは、ヒトと場合によるが、三回弾けば楽しくなり、五回目には形が見え、七度目には自信が湧き、十度目にはハマって止まらなくなる。

  五回の反復で8小節ほどのものであれば、時間にすればものの5分の練習だが、本人の体感時間は長い。その挑戦が新しいものであればあるほど時間は濃密に感じるのは、初めて訪れる場所への道のりの時間感覚に似ている。故に終わった時の達成感は大きく、こぼれる笑顔の大きさがいつも印象的である。

 もうひとつ心に留めておくべき事は、反復練習を終了する事”である。個人的には10回と決めたら10回以上やらない指導法に気をつけている。もちろんレベルや目的、生徒のその日の練習姿勢にもよるが、あくまで決めた回数の中で目標を達成することが大前提であり、その中でできなければ反復練習ではなく、技術的な難題点、問題点を探し克服する練習に切り替える事をお勧めする。

 逆にある程度できているのなら、必要以上に回数を重ねていく事は、頭の混乱をまねいたり、筋肉疲労から技術(システム)の崩壊に繋がり、返って悪になる。これは熱心な生徒に起こりがちな悪いルーティーンであり、スムーズに制止する必要がある。

 合言葉は“良いイメージで明日に繋げる“で、楽しみは明日に取っておく、くらいの気構えが丁度良い。だが存外これが一番難しい。特に本番の近い日に不安を解消するために練習をする時に、この現象がおこる。焦りは筋肉を硬直させやすいので、筋肉疲労から来る腱などの怪我もココで起きやすい。練習のやり過ぎは、ある。止める事は勇気を必要とするし、また常に音楽の大義を忘れないインテリジェンスが、何よりも大事である。

反復練習の目的と集中力(達成感と自信)

 音楽の練習の上では、主な反復練習の目的は「技術、システムの”癖づけ”、かフレーズの暗記」である。

 筋肉運動能力の向上の効果(指が早く動くなどの)を目指す為に行はれるケースもあるが、経験上、純粋に”反復練習”のみに寄って指がスムーズに動くようになる、と言うのは望み難い。そこはどちらかと言うと、反復よりは技術(メカニック)練習であったり、楽典の理解により頼む方が断然効果的である。

 あくまで反復はその”技術のクセ付け”、”フレーズの暗記”の為である事をお薦めする。

 もう一つ加えてオススメしたいのは、子供達のレッスンに、である。

 特に幼児や、初等の生徒のレッスンでは、ピアノなどの楽器に触れる事に慣れる良い機会になれる。反復練習の良いところにリズムを持って練習に向かえる、と言うところで何度か弾いていれば余計な思考がとまり、集中力が高まりやすく、弾いていても楽しく、また例え失敗したとしても、次がすぐにあるので手軽さもある。

 また、5回弾く、などゴールが目に見えるので集中力を付ける練習に積極的に活用でき、その過程で練習後に自分の上達が明瞭にに確認出来るので達成感と自信が何よりの生徒自身へのご褒美にのるだろう。もちろん、その形に導いていくのがコーチやインストラクターの仕事であるのだが、その経験を生徒の身体に染みつけ、やがて生徒自身でその時間を再現できる様になる事が最大のゴールと言える。

 毎日の練習の中での反復練習(没頭の中から)

 もしも、生徒が楽器を自主的に毎日弾く習慣を付けたのなら、それは見事な事である。

どうかその毎日続ける理由が楽しいからという純粋な理由だけであって欲しいが、現実はそうシンプルではないだろう。

 晴れの日もあれば、雨が降る日もある、とだけ言えば認識いただけると思う。逆に言えば毎日一貫してやり続けるのは”至難の業”であるので、例え1日の練習の中に思った程の集中力が湧かない日は自分に苛立つのをやめて、単調な反復練習から離れ、違った事に挑戦するなど、興味を呼び起こすクリエイティブな努力が役に立つ。また、それすらも出来ない日もあるだろう。しかしソレを落胆する事なく、むしろそこで”楽観的”になる努力が大事で、「明日にとっておこー」位のノリも持続性には必要な大事な要素である。1日の休日がそれまでの努力を無にする物では無いので、出来なかった1日を恨む事はない。楽観的である事は創造力を必要とされる仕事においては大事な姿勢である。”反省と悲観”を混在させてはいけない。

 逆に無理して毎日のルーティンに必要以上に固執したり、他人(子供)に押し付けたりすれば、反復練習はこなす事のみが目的の”作業”にかわり、創造性は失われ、練習への興味は著しく減衰し、果ては、楽器への又は音楽そのものへの興味を失くす。

 音楽のゴールが”自己表現”であるのなら、そこは(特に子供への音楽教育では)避けたいところである。

 (ここで毎日の”固い決意の上で”決めたルーティンを続ける”事への否定ではないし、”少々ではへこたれずに続ける事の出来る強い精神力を養うためのトレーニングや教育”の否定しているのではない、ということを留意して頂きたい。そういうトレーニングも必要ではあると個人的には思っているが、ここでは反復練習に付随する効果のみについて論じたい)

 とは言うものの、毎日の練習の効果は絶大である。どうか試しに四小節の新しく学んだメロディーを一日八回練習した一週間を体験していただきたい。効果は4日ないし、3日目にして体感できるはずである。またその一週間の体験が自分の身体に残っていく感覚もじっくり味わっていただきたい。また、そこで新たに確認できるのは1週間やった後の2週目に練習しなかったとして、その“やった一週間“が無駄になる、ということでは“ない“ということである。

 弾ける事が目的の練習において、やらなかった日を数える必要はない。弾ける事が大切であり、努力の数は問題ではない。血の滲んだ指は、自分の精神と身体を無視して掻きむしった努力の証、ではなく、音楽をする喜びから痛みを忘れた”楽しみと没頭の証”でなくてはならない。大切な事は音楽に触れているその自己の時間の質である。その時間の質が音楽の質と品となって表れるであろう。

 音楽室の扉は広く開かれ、世界のどんな大きなグランドホテルよりも部屋数は多く、基本的に全て個室である。練習室はさながら事象を測る研究ラボであるし、個人的な想像が具象化され音で描かれるアトリエでもある。

喜びは反復される(音と戯れる)

 結果のでない練習には意味がない。それは同感する。だが結果だけを求めてしまう練習は盲目的だある。練習に喜びを見出さなければ、やがて彼はその練習を辞める。音楽を辞める。

 大袈裟に聞こえるだろうが、音楽の練習は”音の探求の時間”であり、音と戯れる時間である。どの様にすればどの様な音が鳴るのか、それは物理学的であるし、どの様な音が鳴ればヒトの心はどの様に動くのか、それは心理学のようでもあるだろう。長い練習の過程に於いて反復される旋律を、彼、彼女は幾度となくミスして奏でるだろう。しかし、注意深い生徒は、その意図せず生まれた音にも、既存の音の響きとは”異なる美しさ”を発見する。その譜面とは異なる音をただの間違いとして捨てるのか、それとも白紙の譜面に記録して、自分の音楽の種としてに大切に取っておくのか…。

 音楽室の扉は広く開かれ、世界のどんな大きなグランドホテルよりも部屋数は多く、基本的に全て個室である。練習室はさながら事象を測る研究ラボであるし、個人的な想像が具象化され音で描かれるアトリエでもある。音の探究は止めどなく、際限がない。たのしい。それらは個人的な空間で育まれ、濃密な時間と共に熟成され、"自己表現"として世の日の目にあう。

  そんな悦びに溢れた誰にも邪魔されない個人的な空間と、その幸せな時間を楽しんで欲しい、と、そう思う。創造の本質には想像があり、想像の本質は遊びであるのだ。なれば、遊ばねばならない。音と遊ぶ。それこそが、音楽の本質であるのだから。

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